「一般的な考え方」の是非について
- 2020.04.27 Monday
- 19:07
いつまでもトップがあの記事なのもどうよと思ったんですけどネタもなく、お久しぶりです。
休校が続きまして、子供に国語を教えていて思ったことなど。
「レモンのにおい」
から皆さんは何を想像するでしょうか。
次男は「いやなきもち」だそうです。
理由を聞くと、
「大好きなハンバーグにレモンがかかってすっぱくなってしまった場面を想像して、嫌な気持ちになった」
だそうです。
実に面白いですね。個人的には「さわやかな感じ」とか言われるよりずっと面白いんですけど。
×ですね〜。これを「間違い」とする学校教育に賛否があるのはわかります。
しかしこの発想、固定概念に縛られないのはとてもいいんですけど、自由すぎてとりとめがなさすぎるんですね!! こんな考えまでOKとしていたら、クラスの人数分の答えが存在してしまって先生一人で対応するにはいささか酷なことでしょう。そして、個性を伸ばすのは国語の授業とは全く関係ないと思うんですよね。
例えば、次男の「レモンは嫌な気持ち」を尊重すると「レモン=さわやか」という比喩表現を一切読み取れなくなってしまいます。
大事なのは
・レモンのにおい、という言葉を見て想像する気持ちを次から選びなさい
1:つらい気持ち
2:こわい気持ち
3:さわやかな気持ち
4:いやな気持ち
となったときに「ぼくは4だけど、答えは3だろうな」と考えて3を選ぶということです。
これは別に個性を潰す意図でも出題者への忖度でもないと思うんですよね。
少し話が逸れるんですけど、良い文章の絶対条件を私は「伝わること」だと思っています。
ですがそれを重視しすぎると、文章は詰まらなくなります。
爽やかさを伝えるときに、100%相手に伝わる言葉というのは
「爽やかな気持ちになった」
という以外にはありません。でもこれは面白くありません。余韻も何もないからです。
これを、爽やかという言葉を使わずに伝えたいのが作家気質です。
例えば、先の問題をクリアしていれば
「部屋にはレモンの香りが広がっていた。」
という文章で爽やかさを感じられるようになるんです。
例えば、私魚の顔が好きで、スーパーの魚をただ見ているだけで面白い気持ちになれるんですけど、いくら私が死んだ魚の顔が好きだからといって
「死んだ魚がたくさん横たわっていた。」
という文章で楽しい気持ちを伝えようとするのは無理がないですか?
ですから私は楽しい気持ちを伝えるときに魚という要素を選ぶことはありませんし、これは自分の個性を軽視していることだとも思いません。
学校教育は個性を潰すところではなく、一般的な考え方を習うところだと思っています。マイノリティの否定ではなく、無理にでも一つの境界線を定めておかないと、人と共存することは難しいと思うからです。
少し話のスケールが大きくなってしまいましたが。
小説の世界でも、婉曲な表現は嫌われます。相手に伝わる可能性が減るからです。それは表現者の手腕に欠けることと、読み手が文章に慣れておらず、また一般的な表現の「一般的」というのをよくないとされる風潮によって、想像力や読解力などの在り方が変わってきているのもあると思います。
楽しい気持ちは楽しかった、爽やかな気分なら爽やかな気分と書けばいいじゃないか。
ごもっともです。
ごもっともだけど、そうは言いたくないのが表現者なんですよねえ。
ですから私は次男の「レモンが嫌な気持ちか、面白いね!」と言いながらも「正解はさわやかな気持ちダヨ。」と涙を飲んで教えるのです。
まぁ、表現者としては「レモンが爽やかな気持ち」なんてのも使い古されすぎたありきたりの表現なので、次男の言の方がよっぽど面白いんですけどね。
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